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ホテル屋が見た1.17 [ホテル(その他)]

震災15年目の備忘録

阪神大震災の発生から15年。あの未曾有の大惨事も日を追うごとに記憶が風化していく。私はホテルという社会の縮図を通して震災を見るという経験をすることとなった。ちょっと違った視点から見た震災の様子を書き留めておきたいと思う。


◆1.17

7年余の東京転勤生活を終え大阪に戻りちょうど1年、年末年始の繁忙期も一息つき宿泊部門に所属していた私は数日後にチェックインする手配事項の込み入った団体の受け入れ準備に奔走していた。1月16日も終電に近い電車で豊中市内の自宅に戻り眠りに就いていた。
夜も明けやらぬ頃突然襲った激震が何であるか寝ぼけた頭は理解できず、怪獣がマンションを揺さぶっているのかと本気で思ったほどだ。台所で食器類が激しく割れる音でようやく目が覚めた。地震だ!
なんとか上半身だけ起こし照明をつけようとするが反応しない。とにかく情報をと枕もとのラジカセに手を伸ばすが当然電源は入らない。停電しているのだ。家内は子供を庇おうと寝返りをうった。次の瞬間寝ていたところに本棚が倒れてきた。
やっと揺れがおさまったときに考えたことは「東海地方は大丈夫だろうか?」。この時はまさか震源が淡路島付近だとは思ってもおらず、てっきり東海地震が発生したものと思っていた。


◆出社できず

近所に住む祖母のことが気になり自転車で向かう。倒壊した塀、水道管が破損し水が湧き出す道路にただならぬ事態を認識する。祖母が住む家も1階がかなり損傷しており扉の開閉が思うに任せない。とりあえず無事を確認し阪急服部駅に向かう。運転状況を確認するためだ。案の定「運転見合わせ」とのこと。困った、先述した団体の手配書をまとめて今日中に関連部署に通知しなければならない。なんとしても出勤しなければ。
なんとか会社に連絡を取りたいが、電話も不通である。あちこちの公衆電話を試すが何れも通じない。諦めて自宅に戻るとなんとマンション1階のローソンの公衆電話が使えるという。行列に並びやっとのことで連絡を取ると件の団体は交通途絶により早々とキャンセルになったとのこと。とりあえずほっと一息。電車は不通、バスも淀川に架かる橋の点検が済むまで大阪市内には入れないとのことで致し方なく出社は諦める。
台所に散乱する食器の破片を片付けながら電気の復旧を受けテレビを見て事態の重大性をあらためて認識する。被害の中心が神戸だということも。倒壊した阪神高速を見て愕然とする。


◆混乱する予約センター

翌18日は阪急宝塚線が間引きダイヤながらも復旧し出社する。電車も傷だらけである。
昨日出社したスタッフに状況を聞くと宿泊予約センターはPCのモニター類がことごとく転倒し、床にはファイルが散乱、足の踏み場もなかったとのこと。宴会場やレストランは什器類や酒類の瓶が損壊、シャンデリアも一部が落下するなど営業できる状態ではないという。もちろん直近の予約はほとんどキャンセルとなった。
宿泊部門も被害は大きく数百ある客室の内何室が使用可能か把握できてないという。エレベータも停止したままで点検待ち。目も耳もふさがれた状態である。
そんな中電話の嵐が押し寄せて来た。住宅を失った人たちがとりあえずホテルに身を寄せようと考え始めたようだ。その数たるや凄まじく代表電話経由5回線、直通回線1回線、フリーダイヤル1回線が常に塞がっている状態が延々と続いた。こちらも状況を把握できておらず受けるに受けられない。そんな中「○○産業の○○や、何時もの部屋用意しておいてくれ!家族も行くから隣にもう一部屋頼む」。常連さんからの電話だった。状況を説明し時間をくれるよう説明するも「ごちゃごちゃ言うな!こういうときに用意するのが顧客に対するサービスやろ!とにかくこれから行くぞ!」と言って電話は切れた。この手の電話には手を焼かされた。追い詰められたときこそ人間の本性が出るというが、この手の人物が社会にそれなりの地位を占めているとは。暗澹たる気持ちになった。
ただ、大部分の電話は悲痛なものだった。「とにかくシャワーだけでも使わせて欲しい」、「階段でも良いので雨風気にせず休む場所を貸して欲しい」等々。


◆ホテルはどう対応したか

こうした要望に応えるべくまず現状把握が急務となった。客室の被災状況の調査を技術スタッフが不眠不休で行い、使用可能な客室のナンバーがフロント経由で逐次報告されてくる。予約センターのホワイトボードにそのナンバーが転記され予約を受け次第ナンバーをアサイン(割り振り)、ボードから消していく。まるで株か為替のディーリングルームのような様相だった。これが原始的ながら最も手堅い方法である。ちなみに普段はナンバーを割り振るのは基本的にはチェックイン時のフロントの業務である。全ての予約をプレアサイン(事前に割り振る)などというのは正に異例の事態だった。
ひととおり客室のチェックを終えると無傷の部屋に加え宿泊には支障はないが壁面に亀裂があるなどいわゆる故障部屋も販売対象に回された。
どうにか受け入れ態勢が整い続いて被災者支援策を打ち出した。主なものは次のとおり。ただし、一部記憶が定かでない部分があるがご了承願いたい。

①被災者特別料金の設定
被災者からの予約については部屋タイプお任せで大幅割引料金で提供。故障部屋については納得いただいた上でさらに割引。

②グループホテルの斡旋
もちろん大阪のホテルだけでは受けきれず近畿圏に展開する系列ホテルに斡旋を行った。もちろん特別料金を適用し、予約の円滑化を図るため各ホテルから大阪で販売可能な客室を一定数提供を受ける。

③シャワーの開放
せめてシャワーだけでも使ってもらおうと一部客室のバスルームを開放した。混乱を防ぐため公表するのは控えていたように思う。

④被災地への炊き出し
先述したように直近の宴会はことごとくキャンセルとなったため食材は大量にあり、コックの手も余っている。ということで被災地での炊き出しを実施した。ただし、この策については完全に外資系ホテルの後塵を拝することとなる。在阪外資系ホテルの対応は早かった。得意のPR術に加え、民族系ホテルが今も水商売感覚から抜け切れていない体質によるものである。とにかくCSRに対する意識が違うのだ。


◆全国から集まる支援の手

被災者からの予約ラッシュが一段落すると次の仕事が待っていた。壊滅した神戸のライフラインを復旧すべく全国から派遣されてくる電力、ガス会社のスタッフのハンドリングだった。
どういう経緯によるものかこの仕事は大阪市内のある旅行代理店が一手に握っていた。渡された資料には北海道電力をはじめ電力各社、東京ガス、東邦ガスなどの都市ガス各社の名前が列挙されている。ただ、最終的な人数、氏名などは土壇場まで不明という出たとこ勝負でフロントはずいぶん苦労していたことを思い出す。
連日作業を終え戻って来る彼らはヘルメットに安全靴という出で立ちである。ロビーは華やかなホテルの館内というより野戦司令部という趣だった。


◆フロントナイトチーム奮戦す

このように全て異例尽くめの被災後のオペレーションだったが、特に過酷な勤務を余儀なくされたのはフロントと館内のメンテナンスを担当する技術スタッフだった。中でもフロントナイトチーム(夜勤)は7時に出勤してくる日勤チームへの引継ぎを目前にしての地震発生だっただけに疲労も激しかった。さらには引き継ぐべき日勤のスタッフが出勤できないためノンストップで走り続けざるを得なかった。
加えて幹部も多くが交通再開まで出勤できず、また多くは連絡もつかなかったため指揮命令系統を確立できず現場の判断で動かざるを得なかった。結局ナイトチームが引き上げたのは被災翌日の夜だったと記憶している。勤務に就いて50数時間不眠不休で奔走していたことになる。


◆足取りも重く・・・・・

幸い私は毎日帰宅することができたが、その足取りは重かった。
阪急梅田駅の改札口からは土埃にまみれた電力、ガス会社のエンジニアたちが疲れ切った表情で降りて来る。ユニフォームには馴染みのないロゴが付いている。
そして、神戸線ホームにはポリタンクとブルーシートを抱えた被災者と思しき人々が列をなして上がっていく。被災地で手に入らないものを大阪まで買出しに来ていたのだろう。
毎日こうした光景を見ながら帰宅するのは辛いものだった。
自分の仕事が落ち着いたら何かのボランティアに参加しようとも考えていた。しかし、果たせぬまま、いや果たさぬまま15年が経過してしまった。
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コメント 24

まるたろう

震災時の、サットンさんをはじめ、ホテルの方々の奮闘ぶり、
読ませて頂きました。
自分も直接震災を体験した者として、自分がその時どんな事を
していたか等、何も今まで記録していませんでしたので、記憶が
風化しないうちに、これから書き留めていきたいと思いました。
by まるたろう (2010-01-17 22:09) 

うたに

そうだったのですか…サットンさんも、大変な体験をされたのですね。
うちの親父さんが勤めていた会社は神戸にも支店があったのですが、そこは壊滅的なダメージを受けたと聞きました。

思い出したくない光景も多くあったのではないかと思いますが、こうした記事を紹介して頂いたことで、ホテルで仕事をされている方から見た震災の体験を知ることができました。ありがとうございました。
by うたに (2010-01-17 22:12) 

テンやもん

当時は、地震が発生するほんの数秒前に目が覚め、
地から揺れる地震を体験しました。
交通機関が麻痺して、学校にも行けず、呆然とTVを見ていました。

今、同じ事が起こったら、何が出来るか心配です。
by テンやもん (2010-01-17 23:38) 

ホタルの館

貴重な体験話を聞かせてくださり、有り難うございましたm(_ _)m
by ホタルの館 (2010-01-17 23:57) 

京葉帝都

震災に遭われた直後のサットンさんと勤務先の冷静な対応が時事刻々と伝わってきます。無事であったとは言え精神的には大変だったと思います。
私もテレビで被害が伝わってくると愕然としました。今、日本のどこかの大都市を大地震が直撃すると直接の被害とその後の混乱はもっとひどいものになるような気がします。自宅の本棚を見てみると、「ドキュメント阪神電車の430日」「車両たちが闘った146日」(阪急)のVHSビデオがありました。
by 京葉帝都 (2010-01-18 01:39) 

ファジー

あの日、武庫川を境にその東と西とでは、ほんと天地の差がありましたね。
大丈夫な大阪のホテル事情が大変なことになっていることは窺い知っていました。しかしこうして詳細なレポートを拝見するにつけ、神戸だけでなく大阪も非常事態だったということがよく分かりました。まさに戦場でしたね。
by ファジー (2010-01-18 16:32) 

サットン

まるたろうさん

時の流れって怖いですね。あれほどの惨事も記憶はどんどん失われていきます。毎年この日が来るたびにこのままではイカンと思っていました。
今年はこれだけ書き残しただけでも進歩といえるかもわかりません。
記憶に留めるだけではなく次に被災したときに役立てることが更に重要だと思っています。
by サットン (2010-01-18 19:01) 

サットン

うたにさん

まさに油断を衝かれた形でした。まさか関西が震災に見舞われるとは!誰もが思ったはずです。
ホテル屋だけではなく様々な職場で想像も出来ない苦労があったことと思います。フジテレビ系で放映された「神戸新聞の7日間」は見ていて画面が滲みました。
by サットン (2010-01-18 19:08) 

サットン

テンやもんさん

私も地鳴りを聞いたように思います。その音が耳にこびり付いてトラックのエンジン音さえ地鳴りに聞こえたことも。
今、同じ事態が発生したらどうでしょう? 何も進歩していないかも知れませんね、行政も市民も。

by サットン (2010-01-18 19:14) 

サットン

ホタルの館さん

12階で体験されたんですね。さぞ揺れたことでしょうね。
大阪市内なので少しはマシだったのかな?
by サットン (2010-01-18 19:16) 

サットン

京葉帝都さん

今にして思えば冷静だったのかどうか、反省点が幾つも出てきます。とにかく気構えが全くできてなかったですから。
おっしゃるとおり今被災したらと思うと甚だ心もとないですね。ハイチの震災にも今頃援助隊を差し向けている有様ですから。
本棚の位置にはくれぐれもお気をつけ下さいね!
by サットン (2010-01-18 19:24) 

サットン

ファジーさん

私の自宅があった豊中は大阪府下では被害が大きい地域でしたが、それでもわずか数キロ先の伊丹市でビルや高架が倒壊しライフラインが途絶しているとは正に紙一重でした。
あの異常な状況の下、公に語られていない様々な苦労があったことと思います。その苦労を活かしたいですね。
by サットン (2010-01-18 19:31) 

takechan

蕨の自宅にいましたが、震度1にもかかわらず揺れを感じて
目を覚ましたのを覚えてます。また、ちょうど1カ月経って、兵庫・大阪
の支店の方と今後の対応を打ち合わせるために神戸などに行きました。
街中でみなが助け合う姿を目の当たりにし、人間の素晴らしさに
感動したのを今も忘れません。
by takechan (2010-01-18 21:13) 

ドラもん

震災の体験談とコメントの数々、貴重なお話をありがとうございます。自分も被災した時の事、いろいろ考えました。
by ドラもん (2010-01-18 22:44) 

いそしぎ

あれから15年・・・。もうそんなに経つかのと同時に、鮮明に残るあの時の縦揺れ。
全てはあの日、あの時間から始まった事ですが、そこから先には、それからの日(日常)がありましたね。自分は大阪府下の人間で大きな被害を受けてなかった事もあり知識、認識が薄いように思えます。
貴重な、お話ありがとうございます。
by いそしぎ (2010-01-18 23:30) 

サットン

takechanさん

1ヶ月目というとまだまだ瓦礫の山が残っている頃ですよね。現地入りされるのもさぞご苦労があったものと思います。
被災後の市民の連帯については世界的にも注目を集めたようです。こういう場合につきものの暴動、略奪が発生せず市民が節度をもって行動していたと。一方でマンションの建て替えを巡って住民同士が対立するなど問題も長らく引きずっていました。
by サットン (2010-01-19 11:06) 

サットン

ドラもんさん

時の流れと私のオツムの老化で記憶がどんどん消えていくのに恐ろしくなり、今回は私独自が経験したであろう部分を自分への備忘録として書き留めました。
いざという時のシミュレーション大切ですね!
by サットン (2010-01-19 11:12) 

サットン

いそしぎさん

あれから15年、この大惨事もだんだん人々の話題に上らなくなっているように感じます。1.17の特別な報道ももはや地元関西だけだとか。
当時、私は大阪でも最も被害の大きかった豊中に住んでいましたので食器が割れるだけで済んだことは奇跡だと思っています。それだけに犠牲になられた6434名の命を無駄にすることは許されないと思います。とはいえ、何もできていないのが情けないです。
by サットン (2010-01-19 11:24) 

UZ

震災の体験談を拝見しましたが、あれから15年が経過したのですね。私はあの時ものすごい揺れで目が覚め、気づいたら転倒した家財道具に囲まれていました。寒かったので布団を重ねていたので怪我がなかったのが奇跡でした。あれが夏だったらと思うとぞっとします。
尼崎でしたのですぐにライフラインが復旧しましたが、半月経過して大学まで行くのに3時間以上かかりました。途中長田の町並みを見た時には地震の凄まじさを感じさせられました。生かしてもらった事を忘れずにいたいです。
by UZ (2010-01-19 23:04) 

manamana

神戸新聞社の地震直後から新聞を発行するまでの苦労や、
カメラマンの苦しみなどのドラマを見ました。
また、メカニズムについては、NHKの特集を見ました。
サットンさんも同様のご苦労を経験されたんですね。
わがままな社長はんの話、外資系の対応が早かったこと、
実際に体験した人でないと分からないことですね。
ハイチのニュースを実ても、
こういう地震が、まだ起きると思うと・・・
やりきれなくなります。
by manamana (2010-01-19 23:07) 

いそしぎ

連続投稿、すみません。
何も出来なかった人達の方が多いですよ。
これだけ誠実な記事をお書きになられて、情けなくなんてないです。
私も何もしていません。この間の17日は、ずっとウタタネしていました。
何か出来る事は、これからに、あるかも知れません。
上手く伝えられず、すみません・・・。

by いそしぎ (2010-01-20 00:21) 

サットン

UZさん

それは不幸中の幸いというか、九死に一生という感じですね。あの揺れではL時金具で壁に固定していた家具も壁もろとも倒れて来たそうですから。
神戸までの通学苦労されたことでしょう。帰宅時に隣を走る阪急神戸線も長い間西宮北口の表示のままだったことを思い出します。
by サットン (2010-01-20 10:53) 

サットン

manamanaさん

ドラマ「神戸新聞の7日間」、私も見ましたよ。神戸新聞の記者や販売店の奮闘とバックアップした京都新聞の人たちの姿に涙が溢れました。いろいろな職場でいろいろな苦労があったんですね。
あれほどの過酷な経験をしていながら教訓として生かすことができているのか疑問に思いますね。今回のハイチ地震への対応も遅すぎます。国内でもまた同じ轍を踏みそうで。
by サットン (2010-01-20 11:05) 

サットン

いそしぎさん

再度のコメント感謝です!
自分の場合目と鼻の先が壊滅状態に陥っていただけにせめて募金でもと思っていましたが、忙しさにかまけてズルズルと・・・毎度のことですが。
ただ唯一救いになるのは仕事を通じて間接的で微力ながら何らかのお手伝いができたのかなということでしょうか。
そうですね、将来何ができるかですね!
by サットン (2010-01-20 11:15) 

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