特派員報告 被災地で見たもの感じたこと [その他]
仙台市若林区からの報告
久しぶりの特派員報告であります。
今回はボランティアとして仙台に入った東京特派員の現地レポートを掲載することになりました。
4月に仙台入りした特派員。そこで見た光景は壮絶なものであり、様々な思いに駆られたとのこと。活動終了後「自分のレポートが被災地復興のための支援の一助になれば」との思いで小紙に掲載依頼があったものです。
掲載については即座に同意したものの当ブログ上でどのように取り扱うかについては小紙と特派員との間で少々意見の相違を見ることになりました。小紙としては「できるだけ特派員の見たまま、聞いたままを発信したい」。これに対し特派員は「自分のレポートだと思い入れが出過ぎるので第三者の立場で編集してほしい」。結局編集会議の末、特派員のレポートに取り立てて感情に走っている部分など見られず当初の方針どおり特派員のレポートを中心に組み立てることとなりました。
レポートを引用する前に今回ボランティアとして仙台入りすることになった経緯について小紙より説明をさせていただきます。
支援先は仙台市若林区にある福祉施設で特派員の取引先だったところです。震災発生後1ヶ月後先方との連絡もままならぬ中「手伝えることがあれば手伝おう。迷惑そうだったら引き上げよう」との見切り発車で現地に向かうことに。区役所、社会福祉協議会に相談し、ボランティア保険にも加入して4月14日早朝東京を出発、17日までの4日間施設の復旧作業を支援することになったわけです。
それでは4月14日分からレポートを引用していきます。
◆4月14日
朝、東北道を北へ、栃木辺りから一部道路に段差が目立ち、支援車両も多かった。約5時間。
▲東北道を行く自衛隊車両
仙台若林区の某施設(被害の大きかった荒浜地区の近く)は、鉄筋コンクリートの建物は残っており、皆さん健在、虎屋の羊羹を渡した。大船渡の施設は、幸いにも手前までしか津波が来なかったため、何とかなっている、仙台の別の施設(秋保温泉)も、大丈夫だった、訪問した施設が最も酷い、とのこと。もう一度大きな地震・津波の可能性との報道を受け、会議や対策を考えておられた。
▲自衛隊輸送にも貢献する太平洋フェリー「きたかみ」
活動は翌日からにして、まずは自分の目で確かめた方がいい、という某理事長の言葉を受け、周囲(多賀城~塩竈~松島~東松島)を視察に。松島は比較的被害が少なかったよう(湾になっているのと島が消波の役割を果たした?)だが、石巻の手前辺りは厳しい状況。凄まじい津波の威力を見て、先に進む元気がなくなったのも事実。
▲東松島市付近
仙台では宿が取れなかったので、山形のビジネスホテルに移動。夜は、霞城セントラル(駅前西口)の「山形田」にて、芋煮と生ビール、焼酎1本。以上、4月14日。
▲東松島市付近で見た夕日
◆4月15日
▲東北道を行く自衛隊車両
仙台若林区の某施設(被害の大きかった荒浜地区の近く)は、鉄筋コンクリートの建物は残っており、皆さん健在、虎屋の羊羹を渡した。大船渡の施設は、幸いにも手前までしか津波が来なかったため、何とかなっている、仙台の別の施設(秋保温泉)も、大丈夫だった、訪問した施設が最も酷い、とのこと。もう一度大きな地震・津波の可能性との報道を受け、会議や対策を考えておられた。
▲自衛隊輸送にも貢献する太平洋フェリー「きたかみ」
活動は翌日からにして、まずは自分の目で確かめた方がいい、という某理事長の言葉を受け、周囲(多賀城~塩竈~松島~東松島)を視察に。松島は比較的被害が少なかったよう(湾になっているのと島が消波の役割を果たした?)だが、石巻の手前辺りは厳しい状況。凄まじい津波の威力を見て、先に進む元気がなくなったのも事実。
▲東松島市付近
仙台では宿が取れなかったので、山形のビジネスホテルに移動。夜は、霞城セントラル(駅前西口)の「山形田」にて、芋煮と生ビール、焼酎1本。以上、4月14日。
▲東松島市付近で見た夕日
◆4月15日
朝、山形を出発、本日は、支援物資の仕分け。エレベータが使えないので、すべて人力。こういう時に、体力も技術(技能)もない自分が情けなくなる、猫の手よりはマシだろうと言い聞かせつつ、日ごろ使わない筋肉を酷使。それにしても、日本全国からモノが集まっているのを実感、水などは東京より豊富かも。
▲全国から支援物資が
▲仙台市若林区
休み時間(休み休みでないと、続かない)に、皆さんから、地震の後の状況について、いろいろと話をうかがった。某氏によると、仙台中心部で会議中に来た、ビルの15階でグラグラ揺れて、端っこから落ちるんじゃないかと思った、と。施設が心配になり、急いで駆けつけたが、全員2階以上に避難済み。地震から約40分後に津波、近くの用水路から見る見る水が溢れ出し、浜辺(約3km)の松林や家屋が大量に流れてきて、車もすべて流された、と。それでも、怪我人もなく、建物も大過なく、皆さんが元気だったのが救い。
▲海岸から3キロも離れた施設も1m程浸水
ある程度の整理が付いたところで、山形へ撤収。夜は、すずらん街の「はやし家」にて、例によって芋煮(ここのが今回のフェイバリットかな)、生ビール、男山を1杯と爽のボトル(甲類焼酎だけど地元産)。山形は平穏。以上、4月15日。
▲平穏な山形市内
◆4月16日
本日は、使える設備の清掃、1階の床上1m位まで泥だらけ、敷地が盛土・強化されているので、水位2~3mの津波ってことになる。大船渡や三陸のような強烈な波とは異なり、ジワジワと侵食してくるような感じだったそう。この辺は、地域による差もあるだろう。ライフラインも復旧しつつあり、仮設トイレも撤去された。
▲新潟から駆け付けたゴミ収集車
道路は何とか通じていたが、消防などのガレキ処理が続いており、一部は入れない(警察の規制)。地震後3日ほどで道路が開通、その後、電力、水道、ガスも開通したとのこと。しかし、仙台東部道路(盛土が堤防の役割を果たした?)を境に、状況は全く異なる、東側には津波が来たが、西側は比較的被害は少ない。当地では、地震の揺れよりも、津波の被害が大きかったのだろう。
▲ガレキの中でも桜が咲き始める
少し早めに上がったので、仙台市街も視察、仙台城の石垣が崩れていたり、一部道路に通行止めや段差があったり、被害は小さくはないが、ほぼ平静のように見受けられた。ガレキの中でも桜は咲く。夜は、同じくすずらん街のその名も「スズラン」にて、例によって芋煮(ここのもまあまあ)、生ビール、焼酎1本。以上、4月16日。
▲崩落した仙台城の石垣
◆4月17日
本日は、外に出ているガレキの移動、室内からはこれまでに学生ボランティアの力も借りて搬出済み(この辺は仙台市内の有利な点かも)だが、ガレキ収集時に備えて集積場所へ移動。ベッド、家具、電化製品、衣類、書類、その他諸々、それまで大切だっただろうものが、汚泥を含んでどうにもならない。一歩一歩着実に復興に向かいつつあるとはいえ、すぐに、一筋縄で行くものではないだろう。
▲仙台東部道路
午前中だけお手伝いし、午後には東京へ向けて撤収。昼は、仙台東インター近くの「伊達の牛たん」にて、牛たん定食、毎昼コンビニ弁当持参だったのもあって、美味かった。経済支援の意味もあって、地元産の土産を大量に購入。その後、休み休み(やっぱ疲れたんだろう、異常に眠かった)東京へ。途中、交代要員だろうか、自衛隊、警察、消防などの北上する車と多くすれ違った。約6時間。以上、4月17日。
▲仙台東部道路より見る
◆現地をみて考えたこと
さて、自分に何ができたのか、と自問する。圧倒的な災害の前に、人間の力があまりにも小さいことを実感した。しかし、一人一人は無力でも、少しづつでも、協同すれば、環境を変えられる(良い点でも悪い点でもあるが)。某師匠から、人生が変わりましたか、と問われたが、そんなことはない、そう簡単に変わらない。しかし、少しは、何かが変わった、と思いたい。達成感はない、しかし、徒労感だけでもない、自己満足かもしれないが。
▲支援の一環で買い込んだお土産
祈ることでも、義捐金・寄付でも、ボランティアでも、現地のモノを買うことでも、何でもいい、と思う。できることを、できる範囲で、やればいい。ただ、被災した人々が生きていくためには、雇用も含めた生活基盤の再建を助けるような何がが必要なのではないか。これからは(既に)、そういう局面になっているような気がする。
- ボランティアは必要、専門技能があれば尚可だが、仕事は山ほどある
- しかし、受入態勢が整っている場合とそうでない場合がある
- 当然、保険、交通手段、宿泊場所、食料などを自前で用意する方が良い
- 現地のニーズは、地域によっても、人によっても、様々であり一様ではない
- 初期段階では、自衛隊など組織化され、自己完結できる部隊が重要だった
- 復興段階では、様々なニーズへの対応(できないこともある)が重要になる
- 真の復興には、被災者の生活基盤と経済基盤の再建・確立が必要だろう
- 長い道のりだが、一歩一歩自分達でやって行くしかないことも事実だろう
- 被害状況を分析し、今後の街づくりに生かす必要があるだろう
- 背後に支援可能な拠点都市があれば、二次的な被害は小さくできる
- ある程度の規模がないと、街が自立することは困難かもしれない
- 逆に、一極集中も危険、広域的に分散した拠点都市があった方が良い
以上は、たった数日間、特定の現地を見ただけの私見(感触)。現在でも物資不足の地域はあるかもしれないし、一般化が可能とは思っていない。ただ、短期、中期、長期に分けて対策を打たないと(行動をしないと)、と思う。原子力、電力の問題については、悩ましい。省電力的生活は当然だろうが、将来を見据えるなら、周波数の統一とか分散型電源の普及とか、様々な手もあるのではないか、とも思う。
以上、引用終わり。
今回の特派員のケースは予め支援先が特定されていたため一般のボランティアとは対応が異なります。
4月中旬の状況であり現在は状況が異なっている可能性がありますのでご留意下さい。
以上、引用終わり。
今回の特派員のケースは予め支援先が特定されていたため一般のボランティアとは対応が異なります。
4月中旬の状況であり現在は状況が異なっている可能性がありますのでご留意下さい。
自分から何か動ける、ってのは素晴らしいことですね!
僕は受験が近いうえに何の役にも立たなそうなので義捐金と節電ぐらいしか協力できませんが…(^_^;)
東北の太平洋側は土日切符を悪用(?)(←別に規則違反ではありませんw)をして大体訪れたことがあります。今はどうなっちゃってるんだか…
受験が終わったら18きっぷで訪れてみたいです。
by あーちゃん&父 (2011-05-16 16:30)
仙台城址、あの石垣も崩れてしまったのか・・・。
伊達政宗像がある場所から徒歩で広瀬川まで下った時、歩きながら「頑丈でガッチリ組まれているなぁ」と思っていたのだが。。
うちは募金と旅行でしか支援できないけれど、また東北を旅したい。
by うたに (2011-05-16 22:50)
あーちゃん&父さん
今はご自分の目標達成のために頑張って下さい!まだ若い。これから出番はいーくらでもありますよ。
私も東北は過去何度も旅行しました。またのんびりと列車に乗れる日が来るといいですね♪
by サットン (2011-05-17 18:37)
うたにさん
仙台城址も少なからず被災してしまったようですね。
かつて何度も訪れた地名を毎日ニュースや新聞で目にするのはなんとも複雑です。
by サットン (2011-05-17 18:56)
現地へ行かれる行動力、素晴らしいですね。
考えると、いろいろ辛くなりますね。また、そんな自分に余裕があることにも後ろめたさが・・・。
そんな事より、いま出来ることですね。
by いそしぎ (2011-05-19 01:55)
地震から2カ月以上もたつのに、今もがれきはそのままだし、
体育館や公民館で生活する方が大勢いることを思うと、
とにかく、小さなことでも良いから、東北のためにできること
をやろう、という思いが強くなります。
by takechan (2011-05-19 22:09)
いそしぎさん
特派員、学生の頃から黙ってられない性分でして。
焦ることはないと思いますよ。復興はこれから。しかも長い道のりですから。今できることをコツコツやっていきましょう。
by サットン (2011-06-04 14:33)
takechanさん
夏に向け衛生面など気になるところですよね。支援物資も夏向けのものは不足してるでしょうし。
われわれにできることはまだまだありそうですね。
by サットン (2011-06-04 14:43)