SSブログ

急行「桜島・高千穂」の思ひ出 [鉄道の旅]

こんな列車がありました

先月号の鉄道ジャーナル(通巻544号)に列車追跡リバイバル「日本最長の急行高千穂・桜島」なる記事が掲載されております。リバイバルと謳うとおり同誌の名物企画列車追跡シリーズのうち‘74年5月号に掲載されたものを復刻したものです。
当該号は私も小学生の頃に購入しており何度となく読み返した記憶があり、最近になってまた読みたくなったんですが、所在が不明。探していたところに今回の復刻掲載を知り迷わず購入しました。

◆あこがれの「桜島・高千穂」

この列車を知る人は私と同じく昭和40年以前に生まれた方になるかと思います。運転区間は東京ー西鹿児島(現鹿児島中央)間。東京から門司までは両列車併結、門司からは桜島が鹿児島本線経由、高千穂が日豊本線経由で西鹿児島を目指していました。日本最長というだけにその走行距離は桜島で1515.3km、高千穂にいたっては1595.9kmというロングラン。所要時間は桜島25時間43分、高千穂で28時間20分(何れも下りダイヤ)であったといいますから今からは想像もつかない壮大な列車であります。ちなみに下り列車は東京を10時ジャストに発車、桜島の西鹿児島到着が翌11:43、高千穂は14:20着というダイヤ、高千穂はゴールするまでに3回上り高千穂とすれ違ったと言います。
興味を惹かれるのはダイヤだけではなくその列車編成も面白いものがあります。これだけの長距離列車にもかかわらずなんと全車座席車で構成されていました。各々グリーン車を1両含むものの全車自由席という敷居の低い列車でした。(車両はいわゆる10系客車が充当されていました)。
そんな稀有壮大な列車に鉄道少年が魅力を感じないわけがありません。この頃の私にとっては特急白鳥(大阪ー青森)、最長鈍行824列車(門司ー福知山)と並ぶ憧れの列車だったのです。

◆桜島・高千穂に乗る!

その憧れの桜島・高千穂に乗るチャンスが巡ってきたのは記事掲載から1年足らず、'75年1月19日。全区間乗車といいたいところですが、実際は大阪ー米原間、約110km。桜島を基準にしても全行程に対しわずか7%と、ほんのつまみ食い程度ですが、貴重な経験でした。
ことの経緯はというと父が写真仲間と敦賀方面に雪景色の撮影行に出掛けたのにぶら下がって行ったのがそもそもで、大阪から米原へ向かうに当ってたまたまやって来たのが上りの桜島・高千穂だったというわけです。今なら新快速で気軽に行ける米原ですが、山陽新幹線全通直前のこの頃、快速(といっても京都から各駅停車)か優等列車に乗るしかない時代のことです。
早朝の大阪駅にスチームを上げるEF58に引かれて入ってきた桜島・高千穂の姿は今も鮮烈に記憶しています。
車内に乗り込むと、もう完全に出来上がっておりました。西鹿児島を出発して既に20時間近く、冬場の締め切った客室の空気は淀み、暖房の効いた中、アルコールとスルメの匂いが、わずかな乗車の間に嗅覚に染み付いてしまいました。
せっかく乗車することができたものの写真は1枚も撮っておりません。この日のターゲットはあくまでも北陸の雪中を往く列車。フィルムを温存していたものと思われます。

RIMG1274 (306x450).jpg

写真はありませんが、車掌さんから求めた急行券が手許に残っておりました。保存状態は良好とはいえませんが、大阪から200kmまで、上り桜島・高千穂を示す1102列車の表記が読み取れます。東京車掌区乗務員発行や東京南鉄道管理局を表す丸に南の印も見えます。
結局、この2ヶ月後山陽新幹線博多開業に伴うダイヤ大改正で桜島・高千穂は廃止されてしまい全区間乗車は夢と終わりましたが、わずかな区間とはいえ、この破天荒な列車の空気を感じることができたのは幸いだったと思っております。
昨今流行の復活運転を企画すると当るかもしれませんね。桜島はルート途中に3セクを挟むことになりますが。
こんな桜島・高千穂の全区間ルポを敢行したのが冒頭でご紹介した鉄道ジャーナル誌。現在店頭に並ぶ2月号に復刻掲載されております。

鉄道ジャーナル 2012年 02月号 [雑誌]

鉄道ジャーナル 2012年 02月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 成美堂出版
  • 発売日: 2011/12/21
  • メディア: 雑誌

 

☆コメント欄にtarotaroさんより高千穂全区間乗車の体験談をいただきました。(2015.3.14)


nice!(20)  コメント(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 20

コメント 22

まるたろう

そういう列車があったというのは、本では読んだことがあるのですが、
短区間でも、実際に乗車されているのは、貴重な経験でしたね。
確かに復活運転をすれば、面白いと思います。
by まるたろう (2012-01-07 23:38) 

てんぽく

うちの陶芸の先生は、大分から高千穂で上京したって言っていました。
そんな時代が、今ではあっという間に行けちゃうって、以前語っていましたよ。
by てんぽく (2012-01-08 01:31) 

のり

東京・九州間の急行、ありましたね。たしか東京・大阪間は昼行だったように記憶しております。
そういえば、少年時代に時刻表で見た長距離普通や急行に憧れたものですね。大阪・新潟間普通、函館・札幌間普通、門司港・長崎間普通(これには一度だけ乗車いたしました)・・・、懐かしいですね。
by のり (2012-01-08 08:55) 

Cedar

昭和45年3月、初めての九州撮影旅行は、これで行きました!東京から名古屋まではのんびりとした昼行客車急行、名古屋・大阪でどんどん混み始め、九州までは通路まで満員の夜行でした、朝10時に乗って下車したのは翌朝の8時くらい~、いやはや若かったんですね。
by Cedar (2012-01-09 00:01) 

サットン

まるたろうさん

まるたろうさんの世代では既に伝説の彼方ってところでしょうか。
偶然とはいえこの列車の片鱗に触れることができたのは本当にラッキーだったと思います。
復活させるにはJRだけでも4社、加えてオレンジ鉄道ですから・・・夢ですね。

by サットン (2012-01-09 11:50) 

サットン

てんぽくさん

少し前までは夜行列車に乗って都会に出てきたなんて話は普通に聞きましたが、今じゃ飛行機か高速バスなんでしょうね。
でも、帰省にこんな列車使ったら「あいつは出世してない」って噂されそうです。
by サットン (2012-01-09 11:55) 

サットン

のりさん

wikipediaによるとこの列車が最後の大阪ー東京を直通する昼行列車だったそうです。そもそも夜行列車なのに始発駅を10時発ってところが凄いですね。
この頃までは時刻表も賑やかだったように思います。最近のは読み応えがなくって・・・。
by サットン (2012-01-09 12:03) 

サットン

Cedarさん

この列車に九州まで乗られたとは!いやはや羨ましい限りです。朝8時頃の到着というと熊本か大分の先でしょうか。
それにしても昭和45年当時はこんなゲテモノ列車が満員になるほどの需要があったんですね。
貴重な体験談をお聞かせいただきありがとうございます。
by サットン (2012-01-09 13:50) 

Lionbass

私は大阪~長崎間の急行「雲仙」が座席車の最長記録だと思います。
年末にブルトレの切符が取れないときなど利用してました。
下り(帰省時)より上り(東京に戻るとき)が多くて、岡山とか姫路あたりで新幹線に乗り換えることもありましたが…。
あと、すでにコメントされている方がいますが、門司港~長崎の夜行普通列車も何度も乗りました…。
by Lionbass (2012-01-10 10:57) 

サットン

Lionbassさん

急行雲仙、14系の頃でしょうか。私は初めて乗った夜行列車が雲仙の姉妹列車阿蘇でした。新幹線博多開業時には他に西海、くにさきが14系座席車で運転されていて関西ー九州間のお手軽な移動手段でしたね。
夜行鈍行は山陰によくお世話になりました。いつも座席車でしたけど。貧乏旅行には重宝しましたよね。
by サットン (2012-01-10 14:01) 

あおたけ

急行「桜島」、私はJR化後も大阪発で運転されていた
20系の臨時時代しか知らないのですが、
そんなにも由緒ある名前の急行列車だったのですね。
お手元に残った手書きの急行券はまさにお宝です。
今のマルス券だとこういう思い出のきっぷも
印字が消えてしまいますね・・・。
by あおたけ (2012-01-10 17:12) 

サットン

あおたけさん

えー!桜島ってJR化後に復活してたんですか!? 大阪始発で・・・知りませんでした。
この車内補充券、ガラクタの中から出てきたんですが、私と桜島・高千穂の関わりを示す唯一の証拠です。そういう意味では正にお宝。もし駅で買っていれば「大阪→200km」て表記しかなかったと思います。車内で買ったお蔭で列車番号が記入されているのが嬉しいところです。
by サットン (2012-01-11 09:41) 

ドラもん

私もこの記事、「2012年 鉄道ジャーナル2月号」で読ませていただきました。壮大な列車レポート、旅情と想像が膨らみました。
by ドラもん (2012-01-12 11:46) 

サットン

ドラもんさん

この記事お読みになったんですね♪ 28時間を越えるレポートは読み応え十分だったのでは。
この頃の列車追跡シリーズは単なる同乗ルポに留まらず紀行文としても第一級品だったと思います。最近ジャーナルを買っても巻末のリバイバルから読む癖が付いてしまいました・・・。
by サットン (2012-01-12 18:09) 

ひろどん

私は現在48歳ですが、この列車に東京から大阪まで乗車したことがあります。
私が小学校3年生ですから1973年の夏休みでした。この年の4月から父親の転勤で埼玉に住んでいたのですが、大阪へ帰省するのに新幹線では詰まらないと思い、同じ社宅に単身赴任しておられた方の息子さん(当時小6)と二人で乗車しました。
冷房の無い客車の窓から吹き込む風が心地良かったことと、浜松で買った鰻の駅弁(高価なので一つだけ。。)を二人で分けて食べたことが印象に残っています。
今の列車はこんな風情は無いですね。
懐かしい思い出です。
by ひろどん (2013-07-27 22:18) 

サットン

ひろどんさん

私と同年代でいらっしゃるわけですね。「桜島・高千穂」を知る最後の世代といえるかも知れません。
東京ー大阪をご乗車とは! 大阪ー米原で終ってしまった私から見れば羨ましい限りです。
東京ー大阪といえども全区間昼行なんですよね。小学生の眼に東海道の景色はどんな風に映ったのでしょう。
本当に今では味わえない旅情がありました。年々こじんまりとまとまっていくJRには望むべくもないですが。

by サットン (2013-07-28 12:23) 

yogawa隼

桜島・高千穂は、昭和49年ころの冬、小郡から徳山まで。
九州内で大幅な遅れがあり、午後2時頃、ここぞとばかりに乗車しました。
EF58牽引で、最後尾の客車に乗車。 車窓の風景とEF58が噴出する白い暖房用蒸気を眺め、悦に入りました。
by yogawa隼 (2013-08-07 23:21) 

サットン

yogawa隼さん

yogawa隼さんもこの列車に乗車されてたんですね。上りの定時だと山口県内は深夜のはずなので随分派手に遅れていたものですね。打ち切らすに運転継続っていうのもいかにもこの列車らしいところかと。
暖房用のスチーム、懐かしい光景ですよね。最後に見たのはいつ頃だったかな…。
by サットン (2013-08-09 17:23) 

政

母の実家が宮崎だったため、
両親に連れられて急行・高千穂の東京→宮崎間・宮崎→東京間を
よく利用しました。

昼前に東京を立ち、昼の東海道線をひたすら西へ、
ひかり号が青いスパークを放ちながら抜き去っていく夕方の関ヶ原。
大阪からは夜の山陽線を黙々と走り、
”あさ”と言う駅を過ぎると文字通り車窓は明るくなりはじめ、
ワクワクしながらの関門トンネル。
蒸気を上げる”生きたSL”に目を凝らし、
右へ左へひたすら山の中を進む宗太郎越え。
そして、海を横目に眺めながら目的地の宮崎へ。
いまでもそれらの光景が目に浮かびます。

それらの道中の中で強烈に覚えているのが、
深夜、列車は煌々と光輝く工業地帯を通過するのですが、
真っ暗だった車窓が急に昼間のように明るくなると、
さらに本線に沿って長く伸びるヤードを埋め尽くしている、
無数の黒い貨車の群れ。
それらの光景に魅入ってしまった私にとって、
高千穂の旅での楽しみの一つになっていました。

しかし、そんな高千穂の旅も、新幹線・博多開業後は、
小倉乗換の特急・にちりん に置き換わってしまい。
あの工業地帯の景色を見ることができなくなってしました。
徳山あたりだと思うのですが、
もぅあの時の面影はないのでしょうね。

by 政 (2013-09-01 02:29) 

サットン

政さん、いらっしゃいませ!

いやあ、うらやましいですね! 高千穂の車窓を何度も、しかも宮崎までたっぷり味あわれたとは。私なんてほんのつまみ食いだけで終わりましたから。
昼、夜、昼と移り変わる風景はさぞや楽しかったことでしょうね。
徳山付近のコンビナートの夜景には私も魅了されました。初めて見たのは急行阿蘇の車内からでした。それが初めての夜行列車の旅でしたので印象も鮮烈でした。
こんな魅力に溢れる夜行列車の旅も今や風前の灯となってしまいましたね。
by サットン (2013-09-01 15:37) 

tarotaro

やれ北陸新幹線開通、トワイライトエクスプレスが終わる
と連日報道されている昨今、大昔、山陽新幹線開通、その前に最長急行がなくなる との事で、乗った急行あったよな と探してて、ここに迷い込んで来ました。私の記憶は間違いではないと確認させていただきました ありがとう。
以下 記憶にある限り・・・。

山陽新幹線開通の数日前、東京駅10時発に乗り、せっかくですから高千穂に。。。西鹿児島まで乗りました。
九州の周遊券を求め(周遊券だと急行券買う必要なくこの最長の急行にも乗れます、特急券の必要な寝台車に乗れない貧乏ものにとってもありがたい列車でした)乗り込みました。

ころは3月、出発の東京駅、午前10時という時間でしたが、
其の頃流行っていた”なごり雪”の様な、見送りの風景もあったと記憶しています。

そのうちの一人なのかな?長い道中、必然的に話しかける様になったら、東京で大学4年間を終え、宮崎の親元に戻るという女性もいらした。淡い思いもあっただ・・・それだけ良い思い出(笑い)

長い 長かった。途中通勤電車?となることも2度。
夕刻は大阪から西への通勤帰り。九州では朝の通勤電車に。
また九州で朝過ぎると、行商のおばさんで埋まる。東京から乗ってるの?と ザボン(初めて見る大きな柑橘)等をごちそうになったりと、まあローカル色たっぷり。

長い道中、だんだんと東京から西鹿児島まで乗る好きものが、各車両に一人づつくらいいると互いに知るようになる。微妙な仲間意識できる。

すると、山口県内だったか、ある駅で15分停車。ホームから見える、外にある立ち食いソバが魅力的、もし乗り遅れたら、荷物、西鹿児島駅に預けて!と そばを食べに行くものが3名。なんとか発車前に戻ってきた。セーフ。

その他 いろいろあった楽しい旅でした。
西鹿児島駅について、どうする?
とりあえず、4名あつまり、タクシーの運転手さんにお勧め聞いて、今は亡き のぼり屋(閉店したんですね)行って名物お婆ちゃんに、砂糖キビやら貰ったり歓迎されて、ラーメン食べて、西鹿児島駅に戻って解散、バラバラ。中には数時間後に出る急行のって鹿児島本線、そして今度は日本海側を通って青森を目指す!という剛の者も居た。

私はその後、指宿、佐多岬行ったり、熊本等各地観光、列車旅行して、福岡=博多駅通過時には、翌日の新幹線開通のための行列を横目に、各駅&急行列車乗り継ぎで東京に帰ってきました。

それからも 新幹線、寝台列車はどうも好きになれません。
ちなみに 修学旅行も 私等は 東海道新幹線開通していましたが・・・。 品川発の日の出号でした。帰りはもちろん夜行の朝 帰着でした。

列車好きの卒業旅行の様なものでした。
by tarotaro (2015-03-13 23:50) 

サットン

tarotaroさん

貴重な体験談をお聞かせいただきありがとうございます!
高千穂に全区間乗車されたとは! コメント欄には何件かの体験談をいただいておりますが、全区間乗車はtarotaroさんが初めてです。つまみ食いに終った私にしてみれば羨ましい限りです。でも、短区間ながら、この列車の空気に身を置いたお陰でtarotaroさんの経験談を僅かながらも共有できた気がします。私の乗車体験と時期的に近接していることもあり情景が浮かんで来ます。

列車が進むにつれて篩いにかけられるように浮かび上がってくる同好の士らしき人物と彼らとの連帯感、そして微妙な距離感、わかります。ネットも携帯もある今ならば、その後も繋がりを保てたでしょうけど、この頃は文字どおり一期一会ですもんね。それもまた良しかと。

ひので号での修学旅行。私は絵本でしか知りませんが、中学の修学旅行はひので号の後継車両での専用列車でした。おそらく修学旅行専用車両を体験した最後の世代ではないかと思っています。

桜島・高千穂もさることながら、夜行列車そのものが手の届かないところに行ってしまいましたね。

by サットン (2015-03-14 17:40) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

大モリ近モリのせでん冬物語号 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。